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あらゆる鳥のしらべ

埋めつくす本たち
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洞(後) ・外法帖


「さてさて」
尚雲は、ひそりとつぶやいた。


あれから幾日も過ぎた。

起きているのもいささか大層だったが、あぐらを組み、うつらうつらと日を過ごす。
天井がぽかりと空いているから、陽光をさえぎるものがない。岩壁に沿うように退き、暗がりから、丸く切り取ったような日なたの盆を眺める。
子どもも向こうの壁際あたりにいるだろう。
人慣れしない子どもは、かといって怯えるでなく、尚雲を怪しむようでもない。懐いたわけではなかろうが、それでもようやく、尚雲の目につくところで眠ったのはこれが初めてだ。
それにしても、身じろぐと腹が鳴る。飢えることはけして初めてではないが、いささか参った、とため息をつく。子どもは、もとから泣きもしない。あそこで眠っているのは、多分にひもじさからではなかろうかと尚雲は思っている。
その肩に、力が入る。
陽だまりの真ん中に、ふい、と影が差したのを見つめ、暗がりから眼を開き待つ。
鳶のような色合いのそれはずいぶんと大きく見え、次にまばたくと、よくわからぬ色の衣をまとった人の姿となった。
蓬髪をなびかせた丈高い男の声が、あの日聞いたものであることを疑わず、尚雲は息を殺した。
「まだ生きとったか」
ひどく、奇妙な声音だった。
若い姿形に似合わぬ、ごそりと何かをこそげ落とし失ったような。
隻眼の男は、音をたてず、壁際へ一歩踏み出した。
子どもの方へ。
「……寝とるんか。なあ。起きてんか。わいが来たで?」
かける言葉は、いかにも人恋しげで親しげなものだが、声音は違う。この岩壁に幾つも空いた穴に吹く風に似ている。
子どもが動いた気配はない。
「なあ」
暗く深いだけの洞を、吹きぬける風のような声。
うつろな声だ、と尚雲は思った。

「喰ってもええか?」

指の1つも動かしたわけではない。
だが、男の気配はぞろりと変わる。
芝に落ちる短く黒い影が、もやのように動いたと見えた。
ひょろりと長い腕が、赤茶、茶、鳶色の入り交じった袖をまとわりつかせてさしのべられる。
その腕が、尚雲の投げつけた石に動きを止めた。
「何するんや」
「……喰うと聞いたら、止めぬ訳にはいかんだろう」
ふん、と鼻を鳴らして、影がまた動く。
「お前を喰うてやろと思うたんは、いつやったかなあ」
男が見下ろすのは、あの子ども。
そう一言を吐いて、ふいと男の姿はかき消えた。
鳶の羽根が一枚、静かに舞い落ちるのを見上げ、尚雲はゆっくりと身を起こした。
子どもの横たわる暗がりは、ひんやりしている。眠る頬もどこか冷たく、さする尚雲の指から熱を奪った。
なめらかで冷やっこい頬を撫でている内に、黒目ばかりのまなこが、ぽかりと開いた。
そのまぶたを撫でてやって、尚雲はふと、ここに落とされた時の事を思い出した。
あの男が何と言ったか。
「お前は、坊主を、いや。人を、喰うのかい?」
これまで子どもは一度も、尚雲の声に応じなかった。言葉をわかったという素振りも見せなかった。一声あげることもなく、犬猫の方がまだ心持ちがわかる、そんな様子だった。
暗がりの中、一層黒目が大きく見える瞳を覗いて、尚雲はもう一度静かに問うた。
「お前は、いったい何なのだい?」
まなこが揺れる。
切れ長のまぶたの縁がうっすら染まる。
その縁に沿って指を滑らせるが湿り気はなく、ひやりとした、それでも乾いた皮膚を、己の爪の端で掻いてしまっただけだった。
日が沈むと、何を口走ったのかと思う気持ちはふくらみ、詫びるように隣で身を丸める子どもの頭を撫でてやった。

竹筒を振って、尚雲はため息をついた。子どもの口元へ持っていったが、唇を濡らすにも足りない。
「喰うの喰わぬのと言っていたが……」
空はからりと晴れ上がっている。
水がなくなれば、どちらにせよ長くは生きられない。雨が降らぬかと、額に手をかざして青天井を見上げたが、陽光がいたずらに目を焼くだけだ。
囚われてはいても、いつものように行は積む。この経を唱えるのも何度目か。かすれた喉を労りながら唱え終わると、珍しく子どもが頭をもたげている。
それほど痩せたようには見えない。もとから細いからか、それとも他の理由か。
尚雲は、それを問い詰めることをせずにいる。
子どもに見えるが、子どもではないのかもしれぬ。
あの白骨について、何か知っているのかもとよぎらぬでもない。
だが、どちらにせよ、二人してこの穴ぐらに囚われているのは同じ。どう動き様もないのは同じである。
「お前はどうかな? 俺はな。死ぬとか、そういう恐ろしい、というのがわからぬのさ」
カンカンと日が射す刻だからこそ、そうと口にできたのかもしれない。
内緒事を言うように、低くかすれた声でささやく。
もう、そのような声でなければ話せぬ。
話さなければ、喉も痛まぬのだが、尚雲はとりとめのない言葉を子どもに向けた。
「坊主になってそうなったわけじゃあない。子どもの頃からそうだった」
様々な、それこそ肝が冷えるような目にもあってきた。だが、本当に芯から恐ろしく思ったことはなかった。
死にそうな目にあって、それでも最後には助かるなどと信じたわけではない、そう思う。人に尊ばれるような有様ではない。
元からそういう心を持たぬのだから、徳を積み、様々な恐れをなだめ飼い慣らそうと努める朋輩たちには遠く及ばない。
そう思えてならぬので、寺を出た。
窮屈だから、という表向きの理由を掘り下げれば、そういうことだ。
黒々とした瞳を覗いて、尚雲は笑った。
「喰うかどうかとお前に聞いた時、これで俺も恐れを知るのか、と思って心が騒いだ。お前にしたら、いい迷惑だったろう」
すまない気持ちをこめて、ぽんぽんと頭を撫でる。
子どもは、少しだけ目を細めて、頬を芝に寄せている。
「お前の心は、どこにあるのかなあ」
きっとあるだろう。
尚雲の歪な、だがそれなりに鋭敏な心が訴えている。
この子どもは、人かどうかも明かではないが。
ふと思った。
2人をここに捕らえた、あの奇妙な男には、どんな心が宿っているのだろうか。
洞の奥深くにひずむような、空の声を持つあの男。
そう巡らせたのを知ってのように、天から声が降りてくる。
「おおい、もう喰ったかい」
おおい、おおいと声が跳ね返る。
今となっては、何とも言えぬおかしみを覚える。
尚雲を、まるで餌だと言いたげな男の言葉にも、あっけらかんと様子を問うその声にも。仮に、子どもが尚雲を喰ったとして、そう答えると思っているのだろうか、あれは。
この子どもが、何を思い、何をしようとしているのか、あの男は多少なりとわかっているのだろうか。
「わかっていれば、ここに捕らえたりはせんだろうな……」
少し、目がまわる。
手を地について、そのまま身を沈めた。
ざり、と手の甲に伸びた髭が当たる。頭も酷いことになっていよう。坊主というには厳しい有様だ。
まだ声がする。
男は、まだ、上で声を張っている。
反響のためか、それが、なぜか泣き叫ぶ声のように聞こえた。
「あの男、何を、欲ばり、泣くのやら」
歌にもならぬ言葉をこぼして、まばたいた。
まだ死にはしないだろうが、目を閉じてしまうといかぬ。そう思いはしても、まぶたはひたすらに重く、顔のすぐそばを焼く日差しはまぶしかった。
ひやりと、細い指が髭の伸びた頬をさすっている。
首筋も。
背も。
優しく穏やかどころか、身を揺すられる。
ぺちぺちと音までたてて、頬を叩かれた。
男の声がする。
こちらを見ろ、と、そう言っている。
あれも何かを欠いているのだろう。
鳶の羽を身にまとい、不可思議な力で峠を覆いながら、あれは何かを探している。
探して探して、やっと手にしたのだと、それをひたすら囲い込んでいる。
だが満たされてはおらぬ。
尚雲は、ようよう目を開けた。
子どもの瞳がひどく近くにあった。
「……どうした?」
声が降っている。
わんわんと跳ね返り、意味が取れぬ声が満ちている。
それは、鳶の鳴き声に似ていた。
おや、と頬をゆがめて笑んだ。
「なんだ、空っぽではないのか」
ならば、あの男は自分よりもよほど上等だ。
怪(あやかし)だろうとなんだろうと、身の内にあれほどの熱量を持っているのだ。
男の声が、洞に満ちている。
何を言っているのかはわからぬが、何かを求めているのはわかる。
そうして、その声を聞くうちに、ああ、と吐息をついた。
「……参った。俺は、まだまだ死にたくない、ようだ」
このままいけば、じきに死ぬだろう。
それは嫌だ、という思いがぽかりと空いた腹にしみ入る。
よいしょ、とかけ声をかけて、身を起こした。
子どもは心配げに、尚雲の膝にまで身を乗り上げてくる。
かすかすと笑いながら、その頭を撫でてやった。
子どもの頬が柔らかく持ち上がる。
笑った顔は、何度か思い描いたものだが、それにも増して、とても愛らしかった。
「お水」
おや、と思う。
子どもが初めて口にしたのは、その一言だった。
くぼめて差し出された子どもの両手を覗く。
ぽつり、とそこに水滴が音をたてる。
雨かと振り仰いだが、空は青く高い。
もうひとしずく、水が降り、子どもの真っ赤な舌が、それをつるりと舐めた。
「つかまっとって」
子どもの手が、尚雲の手を取り、細い首に腕を回そうとする。
次に、その両腕がぐいぐいと広げられて、傍と気づくと身が走る。走るように上へ上へと差し上げられていく。
舞い上がった空のさらに高いところで黒雲が沸き出でる。風が吹く。遠く雷雲だろう、明るい光が飛んでいる。
長々とした体に両腕を回して、尚雲は声をあげて笑った。
じきに降り出した雨が、激しく身を叩き、髪と髭の間を水が流れていくが、笑いはやまない。くるくるとうねる動きに振り落とされないよう、しっかりと腕と足を回し、尚雲は空を往く。

見下ろした先に、稲光に照らされて鳶色の衣と、眼帯、そうして一筋光る頬とがあったような気がした。

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