麓でかけられる声は、そんなものばかりだった。
お坊様、法師様、どうぞお気をつけられて。
街道筋から離れたここいらに、そうそう賊が出るとは思えず、おおかた獣の類であろうとうなずき行き過ぎるばかりだったが、あまりの数に、とうとう足を止めた。
だが皺深い老爺に問うても、さっぱり要領を得なかった。担いだ天秤棒と笊を傍らに置き、老爺は幾度となく額をぬぐった。
何に気をつけろと言うのか、と尋ねると、困り切ったようにただ、お坊様はいかぬ、いかぬのです、と言うばかりだ。
一時やりとりした後も、おそらく僧形狙いの賊がいようかと、そう、無理に納得するしかなかった。
腕に自信が無いでなく、だがそれを口に出すのもはばかりがあり、老爺には案ずるなとだけ告げて、峰に足を向けた。
山道を分け入ると、辛うじて手の入った跡が残っているのに気づいた。山仕事の者が行き来するのだと知って、やや力が抜けた。
一心に歩き続ける内に、細道は木立を抜け、山の脇に貼りつくような葛折りへと変わった。
日が傾きだしていた。
西日を浴びながら、ひたすら登る。
やがてつるべ落としで日が落ちたが、入れ替わるように月が昇り、足下に支障はない。
もとから夜通し歩くつもりだった。
夜目の利くのを良しとしてひたすら進み、ようやく足を止めたのは、もうとっぷりと暮れてからのことだった。
天を見上げ、文字通り空を横切る星に目を止めた。
天かけて流れる光を「夜這い星」という。
「今夜は、多く星が流れるな」
そうつぶやいた。
背にした木立が、急に激しく音をたてた。あまりに激しく、だが息づかいはもちろん、落ち葉をかきわける音も、転がる石も、何も無い。ただざわざわと枝枝が揺れる。そのくせ、身には風のひと吹きもない。
これは、何だ。
ますます高まる音に、錫杖を引き寄せた。
次の一瞬、天地が逆さになった。
流れる星々が、頭(こうべ)の下に。
いや、杉の梢が足下に。
背負子の結わいた紐がずしりと腹を引くので、とっさに、丹田を締めた。
両足が空を掻く。
両手に握る錫杖がじゃらじゃらと音をたてた。
食いしばった顎を引いたと同時に、星と月とが消え失せ、闇の中に放り込まれた。
それが、どれほどの時だったか、判然としない。
長くも短くも思えて、体が地にぶつかった時にはむしろ安堵した。
背負子が下では無かったのが幸いしたが、それでもしばらく動くことが出来なかった。握りしめていたはずの錫杖は消えていた。辺りの地を指先で掻いたが、小石が爪に当たるだけだった。はたと気づいてふところを探ったが、法具も無い。
何度かまばたき、手を顔のそばで振るったが、闇は居座り続けた。
両手で探ると、小石の散らばる地面は乾いており、真っ平らだ。暑くもなく、寒くもなく、静まりかえって風もない。
やれやれ、と身を起こし、あちこち打ちつけた痛みに顔をしかめながら足を引き寄せた。
背負子を下ろすかと考えるその耳に、ふと届く、ふっふっふっとせわしない息づかい。
何かはわからない、が、獣ではない。
喉をひっかくようなかすかな音が連れ立っている。
人だ、と察して身を低くした。
息を殺し、耳をよりそばだてて、間を測った。
からり、からりと小石が鳴る。
どうやら、そちらも手探りであるようだ。
ならばこの場が暗いのだと思った。
そのままじっと、音をさせずに待った。
衣の袖に何か触れた。
たぐるような動きで、袖が引かれた。
からりと石が鳴って、そっと脚絆をつけた膝頭にも触れる。
そのこそばゆさに、思わずクッと声をこぼした。
相手からは、怯えのはっきりした息づかいがした。
それだから、ふと声をこぼしてしまったのかもしれない。
案の定、短い笑い声にも、触れた何かはサッと退いた。
さらに短くなった息づかいに、かすかすとした声が混じった。
泣かせてしまったのかもしれない。
詫びる気持ちで、だが、丹田の力は抜かぬままで、そっと声をあげた。
「そこにいるのか? 驚かせて悪かった」
息づかいに混じる声が、なお大きくなったような気がした。困じて、後ろ頭に手をやり、笠がすっかり潰れているのにようやく気づいた。手早く紐をほどき、笠を放りやった。
一息ついて、両手をそっと前に伸べ、もう一度声をあげた。
「怖かろうが、俺は、何もせぬよ」
そうして、そっと小さく言った。
「ほんとうだ」
闇の中、お互いの顔形も見えぬまま、両手を差し出して待った。かさり、と今度は笠の潰れた音がした。じっと待つ間に、ひやりと冷たい指先が、固い、手甲をつけた己の手に触れたのを知って思わず頬をゆるめた。
手を引かれ、用心は怠らず向かった先に、ほのかな光が見え、ぽかりと空いた天への穴があった。
「洞窟か」
手を伸ばしても到底届かぬ高みに、岩をくりぬいたような穴がある。そこから、月星の瞬きが降りそそいでいた。振り返ると、出てきたところは横穴で暗い。
だが、己はまっすぐ落ちたのではなかったか、いやそれもどうだったのかと思案する袖を、くんと引っぱって、連れが見上げている。
笑みを浮かべて見やると、連れはきょとりと首を傾げた。
足下は、丈の短い芝のようなものが密生して、ふくふくと体を押し返す。あの穴から雨が降りそそぎ、育ってきたのだろう。
なるほどなるほどとうなずく足下で、ほろりと何かが砕けた、馴染みのないわけでない感触に、取られた袖をそのままにして屈みこんだ。
煌々とした月明かりに、砕かれた髑髏は黒々とした影を刻んでいた。経文を唱えながら、なぜかこれは身に残っていた数珠をつまぐり、左右を見る。
そこに散らばるのは、古びた骨だった。衣らしきものをまといつかせ、うら寂しく転がっている。
連れは、骨にはさして怯えておらず、むしろ不思議そうにつまぐる数珠を眺めていた。
むう、と口を結んで頭を掻くと数珠が鳴った。
「俺は、尚雲という。おまえの名は、何という」
後先に連れ立つ相手を従えて、とりあえず骨をまとめた。切れて散らばっていた数珠玉はそのまま、岩壁沿いにとりまとめてみれば、残った衣と合わせても小さな姿だった。
そうして芝に腰を下ろし、そこに座れと指さした。
見た目はずいぶん幼い。無造作に刈られた黒髪は短く、うなじのあたりでくくることもできなさそうだ。着ている物は、それほど垢じみてはおらず、ほのかに汗の匂いはしたが、昼の日差しの匂いに似ている。
そうして、一言も口をきかない。
名を問い、在所を問い、いつからここにいるのか、そもそもここはどこなのか。やがて降るような勢いとなった問いかけにも、相手は一切返事をせぬ。ただ困じ果てたように、左右にことりことりと首を傾げるだけだ。
ふ、と息を吐いて、尚雲は首を掻いた。
「名は、ないのか?」
ことり。
「口がきけぬのか」
ことり。
「俺が、怖いかい?」
ようやく、首が左右に振られ、尚雲は苦笑するしかなかった。半ば無理矢理引き出したような案配だ。
ともあれ、耳が聞こえぬ訳ではないらしい。唖なのだろうと納得して、片手をさしのべ、頭を撫でてやった。
夜が明けて、陽光が燦々とさす頃合いになると、尚雲は辺りを歩き回った。
童というにはやや年かさめいたその子どもも、尚雲のまわりを同じようについて回る。そこは、夕べ知ったとおりの洞窟そのもので、しかも、出口がどこにもなかった。もちろん、理にかなっていない話で、どうやって尚雲と子ども、そしてあの骨の主がここにいるのかを考えれば、畢竟、入口すなわち出口もあるはずだ。
だが、ここに落ちる前のいっときを思い出せば、一切が怪しくなる。
つまみ上げるように、大の男をここへ放り込んだのは何だろう。
薄ぼんやりとした横穴で、尚雲は眉をひそめた。
やや背を屈めるように元の横穴から抜け出ると、ずっと握っていた袖を放し、草むらに子どもが駆けていく。
尚雲は岩壁を背に腰を下ろし、青天井を見上げる。あちこちがゆるんでいる背負子の中身を思い描いた。
(乾し飯が少し。塩。梅干。水)
水を入れた竹筒はある。
だがどれもほんの少しだ。数日保たせたとしても、すぐに尽きる。生えている草をむしって口にしたとしても腹の足しにはならない。ましてここの草はほとんどが芝だ。
妙な話だ。
苔ならばわかる。
あるいは、山道をふさいでいた葛や蕨、蓬ならばなおわかる。それなら腹にも収まっただろう。だがここに生えているのは芝ばかり。
組んだ足をなお引き寄せて、尚雲は青々とした地面をにらんだ。
幸い、あの子どもはさして弱った様子がない。おそらく尚雲と同じ頃、同じようにさらわれてきたに違いあるまい。だが二人分の食い扶持、飲み水となるとなお難しい。
早晩、あの白骨のごとく、芝に身を横たえる羽目になりかねない。
そこまで思案した時だった。
ざわりと、何かが背を駆け上った。
子どもが驚くほど俊敏な仕草で顔を上げた。その背に向かって声をあげる。
「こっちへ来い、早く!」
駆け寄るその足が、つるりとした裸足と気づきながら、その腕をつかんで岩壁と背とに挟むようにした。
広く丸く射していた陽光が、芝の中央に大きな影をくっきりと浮かび上がらせた。
「ほうい、そこにおるかあ?」
人声だ。
空から降ってくる京訛り。
だが、尚雲は口をつぐんだ。
映る影は、主が蓬髪なのか、輪郭が明瞭ではない。時折かざしているのは団扇か葉か。よく通る声は、なおも問いかけてくる。
「なあ、なあ、返事してえな、もんちゃんやでえ?」
腰の辺りをつかんだ手に、きゅっと力がこもる。息を止めているのか、ふるふると震えが伝わってくる。息づかいで見つかってしまうと言いたげに。
「玩具を落としてやったろう? 見つけたかあ? しばらくは遊べるよって、機嫌なおいて、なあ、ほら、もんちゃんに顔見せてや」
そうして、くく、と笑ったそれが声を低めて言う。
「先の坊主も、うまかったやろう? 今度は若い分食べでありや」
けけけけけ、とまるで化鳥のような声に紛れて、そんな台詞が聞こえたような気がした。あたりを豪と薙ぐ風が吹いたので、それも定かではない。
気づけば、風から身を守るように屈んでいたのは尚雲一人きり。子どもはどこかへ行ってしまい、影も形もなかったが、尚雲の衣には固く絞られた皺が残っていた。
洞窟から延びる横穴は1つではなかった。
あちこち、それこそ蟻の巣穴のようなそれらを一つ一つ覗きこんで、尚雲は己でも不思議なほど根気よく、小さな影を探した。
「おおい」
返ってくるのはこだまばかり。
「俺はここがよくわからないからなあ、迷ったら戻れんのだがなあ」
小ずるいと思いながら、そう嘯く。偽りでなく、糸でもくくりつけねば立ち迷うだろう。
もう一歩、背を屈め、暗がりに踏み出す。
その袖を思わぬ方角から引かれた。
「そこにいたのか」
取った手が熱い。額に手をやればより熱を持っている。小脇に抱えるようにして戻り、陰りだした芝の上に横たえた。細っこい腕、身のたよりない軽さ、骨の飛び出たような肩に眉をひそめたが、子どもはすでに目を閉じ、寝息をたてている。
髪を梳いてやると、手のひらにほどよく頭が沿う。
ふと砕けた髑髏が浮かんだが、白く抜けるようなあの色は、何年も経たものとしか思えず、あの声が戯れじみて言ったのも、取るに足りぬ事のように思えた。