そいつは、ぷぷっと唇を鳴らし、ギュウッと握りこんだ掌を揺すり始めた。
そのうち、M字型に曲げた両脚を上下させ始め、唖然として見守る鳴瀧の前で両腕・両脚をシーソーのようにばたつかせる。腹を基点にして、小さな躯がばたばたする有様は、何となくどこかで見た感じがする。
鳴瀧は眉をひそめ、赤ん坊の激しい動きを見つめた。
「ああ、またやってるな、たぁちゃん」
弦麻が、のほほんと笑いながら、両腕に抱えた洗濯物と一緒に戻ってきた。息子の奇怪な行動にも動じない友に、鳴瀧はちょっと顔を歪めた。
赤ん坊のシーソー運動はますます激しくなり、ジリジリと体も動き始める。腰の位置が振動のせいで少しずつずれるのだが、赤ん坊はそれを知っているのか、一向に舟漕ぎ運動をやめなかった。
「深夜に、アメリカ製のジム用品の通信販売をやっているだろう。アレに似てないか?」
弦麻の声に、鳴瀧はハッと目覚めた思いだった。
確かに似ている。重りを上下させたりしているアメリカ人たちの陽気な笑顔を思い出し、鳴瀧は大きく頷いた。
そして、さらに目を細めて赤ん坊をうかがった。
彼は一心不乱に舟漕ぎ運動を続けている。だんだん、足が畳にパタ、パタと、数回に一度付き始めた。毎回くっつく訳でないのは、こんもりしたオムツが邪魔をしているのと、赤ん坊の足が短く曲がっているからだ。こんな脚でも将来は大丈夫なのだろうかと、鳴瀧はいぶかった。
そう考えている間にも、赤ん坊の動きは勢いを増し、ついに頭まで上下し始める。危険に気づいたときには遅かった。敷居の固いところにゴツンと後頭部をぶつけ、赤ん坊が一杯に目を見開いた。そのギョッとした表情に、鳴瀧の心臓も跳ね上がる。何が起こったの?と問いかける目は、みるみるうちに歪み、ムチムチした頬に水滴が転がり落ちた。
「ああー、痛かったねぇ」
よしよしと言いながら、弦麻が赤ん坊を抱き上げた。もちろん、彼は何の遠慮もなく、その小さな手で弦麻の薄いシャツを握りしめる。抱きしめられて初めて、赤ん坊は火がついたように泣き出した。男の子にしては細い泣き声じゃなかろうかと、比べるものもないくせに、鳴瀧は勝手な感想を抱いた。
「ほぉら、痛くないよぉ。びっくりしただけだよねぇ。たぁちゃーん」
口調こそ、対赤ん坊仕様だが、それほど抑揚や愛想のない言い方に、鳴瀧は脱力を覚えた。
そういえば、弦麻はもはや希少動物に近い硬派という奴なのだ。見た目を裏切る中身に、弦麻に憧れを抱いた男女は、今までことごとく脱落していった。
鳴瀧を除いて、弦麻に接近を果たした者は、皆無だったのだ。
その牙城に侵入した女は、攻略過程と同様、あっさりこの世を去った。しかも、子供を残すという究極の荒技をやってのけた。彼女の生前にやってしまった硬派らしからぬ所業の責任をとり、弦麻はいそいそと赤ん坊の世話に励んでいる。鳴瀧のことなど忘れたように。
思わず食いしばった唇の痛みに、はたと気づいた。その鳴瀧の顔を、大小二つの顔がじぃっと見つめている。赤ん坊の目は、まだ涙で一杯だった。
「冬吾、どうした? 暑気あたりか? さっきからボーッとしてないか?」
他の連中が、仮に目の前で倒れても気にしたことのない弦麻である。鳴瀧への気遣いは、破格の待遇なのだ。それを知っていながら、自分の欲深さに鳴瀧は忸怩とした。
しかし、彼女が現れてから今まで、眠れぬ夜に何度枕を食いちぎったことか。ああもすればよかった、こうもすればよかったと、青春を後悔で食いつぶして良いものか?
鳴瀧は、きっと顔をあげた。
その目の前に、大きなふくふくした赤ん坊が差し出された。
「抱いてみろよ」
「なにを……」
「良いから抱いてみろって」
渡された子供は重かった。生まれたばかりの同じ子供を、薄暗い産科病棟の廊下で弦麻から手渡されたとき、その軽さにどぎまぎしたのは、つい先日のことのようだ。ふわんと鳴瀧の顔を包むのは、甘いミルクの香りだ。
つつう、と透明な唾液が子供の口から垂れたが、余り汚いという気はしなかった。また、ぷっぷっと唇を鳴らし、赤ん坊は眉間に皺を寄せて、鳴瀧のシャツに指をかけている。
「なんだか、いい感じだろう? こう、ずっしりと重くて。ちょうど今、指を動かすことを覚えたらしいんだ。いわば試運転中だな」
良い感じかどうかは知らない。ただ、妙に面白く感じるのは確かだった。喋るわけでなく、何かしてみせるわけでもない。弱々しい生き物を抱いて、鳴瀧は顔をしかめた。
「暑いぞ」
「そうだろ、俺はこいつに“蒸し饅頭”と綽名をつけたね。汗っかきなんだ」
赤ん坊なら、そんなものじゃないのか?
そんな台詞を呑み込み、鳴瀧はとろんとした目つきの赤ん坊を見下ろした。弦麻は、子守がいるうちにと言いながら、せっせと洗濯物を畳んでいる。相変わらず細っこいうなじをみながら、鳴瀧は赤ん坊の首を見下ろした。
……赤くなっている。これは、汗疹とか言う奴ではなかろうか。そういえば、この生き物はいつ行水をするのだろう。夏といえば、赤ん坊は盥で行水ではないのか?
だが、弦麻は盥はないと言った。
「ほら、うちの風呂どうせ小さいだろ? あっちで入れてるんだよ」
小さいとは言っても大人が入れるサイズだ。
「そうなんだ。実は、何度か手を滑らせてな。一人で入れるから、すばやくと思っていると、失敗するなあ」
けらけらと笑う父親に合わせて、赤ん坊は両腕を振った。
「お、気をつけろよ、冬吾。そいつ、急に……」
忠告は一足遅かった。赤ん坊は、にやりと笑い、体を勢いよく後ろへ倒したのだ。寸前で鳴瀧が支えられたのは、幸運と、反射神経の為せる技だった。バクバクいう鳴瀧の心臓を気遣う様子も見せず、弦麻と赤ん坊は声を揃えて笑った。
「倒れる前に、笑ったぞ。何か企むような目つきで」
「お前もそう思う? 俺もそうじゃないかと思ったんだけど、他の赤ん坊を知らないからなあ」
こいつ賢いんだなあ、さすがは俺の息子、などと脳天気に言いながら、弦麻は大雑把にオムツらしき布を畳んでいる。とりあえず重なっていればいいらしい。よれよれのTシャツやジーンズも、ろくに皺を伸ばさず干したのか、すっかり縮んだように見える。部屋の隅を見渡せば、綿埃が積もっていた。
「……いつ、掃除したんだ?」
「ええ? ……葬式が済んだ時?」
龍麻は、鳴瀧の膝の上でシャツのボタンをチュウチュウと吸い始めた龍麻は、七ヶ月に入るはずだ。と言うことは。
「弦麻、お前、今日はとりあえず掃除しろ」
やっぱりまずかったか? とぶつぶつ言う友に生返事をし、鳴瀧は無心に吸い付く乳児を思わず抱きしめたくなっている自分に気づいた。
強く生きるんだ。
人生見切り発車の父親を持った、この赤ん坊の未来はさぞや険しかろう。何を考えて、弦麻を相手に選んだのかと彼女にも文句を付けたかったが、それは最早適わない。
自分の青春の苦悩はひとまず置き、鳴瀧は、轟々と掃除機をかけ始めた弦麻を避けて、赤ん坊ごと窓際へ避難した。
弦麻は即興で歌っている。いい加減な歌詞は、自分で考えたらしい。
「かわいーい、赤ちゃん、ごーきげんな、あーかちゃん……」
ちょっと音痴だ。こんな歌を聞いていては赤ん坊も音痴に育つのではないだろうか。
掃除がすんだら、行水をさせてやらねばなるまい。天花粉とか言うものは、今でも薬局に売っているのだろうか。鳴瀧はそんなことを考えながら、自分でも情けないことに、愛おしいような錯覚さえ覚え始めた赤ん坊の横顔を眺めた。
ミルクの匂いが、甘ったるく辺りに漂っているばかりだった。
※最初期の鳴瀧館長はいろいろアレです。あと、封呪前で弦麻さんが細身の若い人イメージ、今でも実は公式絵を忘れてます。あれはすごく年取りすぎてると思うの。※