まるきり連絡無しの一週間は、新記録だ。
予め、連絡を取りにくくなると言っておきはした。その上で、別の携帯番号も教えたのだ。その番号に連絡が入ったのは、二回だけだ。後は、メッセージすら入っていない。
「……何をつむじ曲げたんだか」
備え付けの灰皿を引き出し、信号待ちの間、片手で引き出したタバコに火を着ける。紙マッチは、これもくすぶった音をたて、なかなか火を着けようとしない。いがらっぽい味が、どこかかび臭いような気がして、幾らも吸わないうちに、村雨はタバコを揉み消した。
普段は使わないチャイムを鳴らす。自分の不在を考えると、どこか遠慮のようなものがあって、つい手が伸びた。
もっとも、半分は嫌がらせかもしれない。誰かが緋勇のマンションに上がり込んでいる可能性は大いにあった。何を疑うわけではないが、気持ちは妙な方向へ転がっている。
村雨はチャイムを続け様に押した。かなりうるさいはずなのに、インターホンに出てくる気配はない。むっつりと、村雨はオートロックを外す番号を打ち込んだ。今、どこかへ出掛けているということは、夕べ入れた留守電も聞いていないということになる。丸一晩、家を空けているわけだ。
あれこれ気ぜわしい十日間の疲れは、確かに残っていた。そこへ、自分も内心では理不尽だと思う苛立ちが混ざり、村雨の気分は最悪だった。
これで冷蔵庫に自分が入れたビールが消えていたら、どうしてくれようか。
そんなことを考えながら、マンションのドアを開けた村雨は、案の定、カーテンを閉め切って夜のような部屋に、舌を打った。
(そういうことかい。旅行でもお行き遊ばしたかね)
乱暴に靴を脱ぎ捨てて、リビングへ向かった村雨の爪先が、生暖かいものを蹴った。
ぐぇ
ぎゅう
よく判らないがそんな声をあげて身を縮めているのは、もちろん部屋の主だった。爪先を龍麻の鳩尾に食い込ませた村雨は、呆気にとられて彼を見下ろした。
「何で、こんなとこで寝てやがるんだ、せんせい」
弱々しく足首を押されて、ようやく脚を引いた村雨は、照明を点けた。
タオルケットを巻き付けて、どうやらここで寝ていたらしい。声になっていない様子に、二日酔いかとリビングを見回したが、酒盛りの跡は無かった。
そして、どうも本当に起きあがれないらしいと見て取り、村雨は龍麻を抱え上げた。
「まさか、ずっと病気だったのか?」
「……違う」
顔を寄せたので、何とか聞き取れた声だったが、あくまで最小限の返事だった。
「ベッド、行くか?」
かったるそうに首を動かすが、それが同意なのかどうかも判らず、とりあえずぐにゃぐにゃした手足に手こずりながら、奥の寝室へ入った。
「……こりゃ、ちょっとあれだな」
空になったティッシュボックスだの、ミネラルウォーターのペットボトルだのが散乱し、脱ぎ散らかしたパジャマとTシャツが、生ゴミのように積まれている。いつもの、すがすがしいほど物のない部屋を知っている村雨には、目を疑う光景だった。
「リビングの方がマシってことか、やれやれ」
Side B 龍麻
水を飲む。
あったかくして汗をかく。
それと、栄養のある物を食べて大人しく寝る。
全部守ったけど、ちっとも良くならなかった。
口の中が痛い。
そこに舌先が触れると飛び上がるほど痛いのは、子供の時と同じだ。下唇の内側に一個、左の頬に三個。その内の一個は、ちょうど噛み合わせの当たるところに出来た。
治りかけの奴が、舌の付け根に幾つか散らばっていて、鏡で見たらすごいことになっているだろう。もっとも、覗けるほど大きく口を開けるのも、痛いからやってない。
口内炎だらけだってさ、みっともない。
笑う元気は辛うじてあったから、ちょっと笑ってみた。やっぱり痛かった。
冷蔵庫の中には、村雨の置いていったビールだけがゴロゴロある。卵はあと二つ。牛乳パックは、最後の一個を空けた。あとは、ひたすら缶ビールばかり。
今のところカップスープに浸したクラッカーだけで生きている。
顎を動かすと痛い。口内炎でこんな所が痛くなっただろうかと思いながら、何とか飲み干したカップを流しに突っ込み、適当に洗って伏せた。
まぶたが重い。
どれだけ寝ても寝足りない感じだ。
ベランダの窓を僅かに開けた。
こうして風が通ると気持ちがいい。
お守り代わりに抱えた携帯電話を置いて、龍麻はため息をついた。
目を閉じると、縁側で昼寝をしている気分になる。腹にタオルケットを巻いて、のんきに猫と並んで昼寝していた頃を思い出す。大概、目が覚めると、夕食の支度が始まっていた。曾祖父は、相撲中継を見て自分のノートに取り組表を書き込んでいた。
「起きたか、龍麻」
そういって、曾祖父が笑う。
猫はいつの間にか、曾祖父の膝の上で丸くなっていて、寝ぼけ眼で近寄っていく龍麻のためにちょっとずれるのだ。
曾祖父の持つ鉛筆の匂いと、猫の喉声、そして台所から漂ってくる煮物の匂い。
柔らかな明かりの下で、毎日がくるみ込まれたように、温かかった。
テレビを見ながら、曾祖父の指が、俺の口に薬を塗る。目は画面を見てるのに、何故か、ちゃんと痛いところに薬を塗る。指先に目があるみたいだった。
弓取りが土俵に上がる頃、夕食の仕度が終わる。
お腹空いたな。
龍麻は、そう思いながら気怠く躯を縮めた。
Side C 龍麻
目が覚めてすぐに、何か食べろと言われても無理だった。
ぼーっと見上げている龍麻に文句を言うのを諦め、村雨はひょいと手を伸ばした。相変わらず長くて器用そうな指だ。変なところで器用。
そんなことを考えていたら、反応が遅れた。
よりによって、一番痛い左頬を、村雨はぐいっと摘んだ。その器用な指をめいっぱい潜り込ませて。
叫ばなかったのではなくて、叫べなかった。
痛すぎた。
涙が勝手に流れ出し、摘まれた頬の盛り上がりから、村雨の手にまで滴っていった。
「なんだ? どうしたんだ、せんせい」
そこが痛いんだ!
もちろんそれは声になるはずが無く、龍麻は痛さの余り、村雨の手をふりほどくことも出来ずに固まっているしかなかった。
「……おい、ちょっと、口開けてみな、せんせい」
痛いからイヤだ。
「首振るなよ、いてぇんだろうが。ほら、何もしねえから、口開けろ」
そっと顎を支えられて、龍麻は否応なく口を開いた。ほんの少しだけ。
目を細めて覗き込んだ村雨は、あああ、と、力の抜けたような声をあげて肩を落とした。
ああ歯を磨いてなかったんだと顔をそむける。
だが村雨は、そっと下唇を引っ張って、その裏側も見た挙げ句、ていねいに顎や耳の下、喉の辺りまで触りだした。
顎の噛み合わせの辺りを、軽く親指で押されて、息が止まった。
「腫れてるぞ、おい。で、ずっとカップスープだけ流し込んでやがったのか?」
うん、そうだよ。
「汗を掻いたあとは水で?」
うん。
「もちろん医者には行ってねぇんだよな、せんせいは」
行かないよ、たか子先生の所なんか。怖いから。
村雨のこめかみに、きれいに青筋が立つのを初めて見た。如月や壬生や御門が時々こうなるのは、慣れていたが、村雨が怒ったのは初めてだ。
何でそんなに怒るんだ。
言われたとおり大人しくしてた。
電話だって我慢した。
ビールだって、ちゃんと冷やしといた。
「……熱、測ったのか」
熱?
測らないよ、ただの口内炎だぞ。
それに、体温計持ってない。
その返事を聞いた村雨の顔を見て。
今度こそ、殴られる。
龍麻は、理由の判らないまま、観念して目を閉じた。
Side D 祇孔
家事一般、人として最低限のことは出来る。上手はどうかはともかく。
ゆえに、洗濯機も扱えるし、茶碗を洗い、掃除機をかけて部屋の空気を入れ換えた村雨は、調理台にもたれて、むっつりと缶ビールを傾けた。
二ダース買い置いたビールは、一番冷える場所を占領して、冷蔵庫の中に並んでいた。
つまみのチーズも手つかずだ。
腹立たしいことに。
そのご立派な冷蔵庫の持ち主は、この一週間以上、買い置きのカップスープだけで生き延びていたらしい。屑籠には、「徳用パッケージ・10%オフ!」の文字が踊っている。
どうしても風呂に入るとごねた龍麻に、十分だけだと厳命して、シャワーに行かせた。
耳をすませて時計を睨み、村雨はガスの火を弱めた。
がたがたと激しい音をたてて風呂場のドアが鳴っている。
「おい、せんせい! ぶっ倒れるんじゃねえぞ!」
やけくそじみて怒鳴ったあと、結局、村雨は様子を見に行った。案の定、のぼせたのか慌てすぎたのか、床にへたり込んだ龍麻を担ぎ出す羽目になった。
リビングに引っぱり出した布団の上に、龍麻を下ろし、村雨は噴きこぼれかけていた鍋の火を止めた。
「いいか。口内炎ってのは、単独でも出来るがな、それだけゾロゾロあるのは、抵抗力が落ちてるんだよ。おおかた、風邪かなんか引いたんだろうが」
ビール缶を傾けながら、切っておいたチーズを鍋に放り込んで蓋をする。
「顎だの喉が痛いくらい、気づけ。それを何だ? 汗かいたから水だ?」
玉じゃくしを引っぱり出す手つきが荒く、伏せたコップが、割れはしなかったが澄んだ音をたてた。
「……汗かいてただの水をがぶがぶ飲んでりゃ、内臓も冷えるだろうが!
この馬鹿!
塩を取れ!
熱ぐらい計れ!
医者に行け!
桜ヶ丘の化け物がイヤでも、他に医者は腐るほどあるだろうが!
今度やったらぶん殴るぞ!」
鍋の中身は、杓子ですくうと、チーズが溶けて糸を引いた。
湯気の立った中身をたっぷりラーメン丼によそい、村雨は新しいビールを片手に座ってふうっとため息をつき、前髪をかき上げた。
ビール缶が冷たくて、指が少し痛くなる。
もう、秋だなと思った。しばらく止んでいた雨が、また、ベランダを叩き始めていた。
黙って湯気に顔を当てていた龍麻が、丼を村雨の方に押しやった。
スプーンも。
「……食わねぇのか。嫌いか、雑炊」
自分が作ったんだから、それほど美味いわけはない。中身も、買い置きの乾燥わかめと卵、そして今入れたチーズだけだ。飲み屋で出てくる奴より悪い。
だが、龍麻は首を振った。
「好きだよ、雑炊は。でもちょっと座ってられない」
龍麻は、ぺたぺたと四つん這いで村雨に近づき、あぐらをかいた膝の上に躯を乗せた。
背中を村雨に預けて、スプーンを手に取る。
「……吹いて冷ましてやろうか」
「いいよ、それは」
喉がつっかえたような声で、龍麻が笑った。
時々、スプーンの動きが止まるのは、まだ口が痛いからだろう。
飲みこむにも苦労している。
背もたれに徹しながら、村雨は、龍麻の髪のにおいを嗅いでいた。
「結構、うまいよ」
照れ臭そうに、もぞもぞと言われる。
その腹を引き寄せて、村雨は尋ねた。
「さっき言ってたが、何で、電話を我慢したんだ?」
かちゃんとスプーンが鳴った。
慌てて口にスプーンを入れて、それが傷に当たったのか、抱えた体がすくんだ。
「やっぱり馬鹿か、あんたは」
ちょっと顔をねじ曲げて、まだ痛そうに歪んでいる口に、舌を潜らせた。
ぽちっと穴が空いたような傷の周りを舐めて、それから音をたてて唇を放した。
「……痛い」
「悪い。ちょっとした仕返しだな」
ため息をついた。
「俺は、電話して欲しくて教えたんだがな、あの番号」
ぽかんと口を開けて、龍麻が村雨を見ている。
その顔が赤くなり、それを笑った村雨を頑として見ようとしなくなって、さらにそれがややこしくなり……。
結局、村雨は龍麻の口から言葉としての返事を聞き出すことは出来なかった。