「まあまあ合格だね、回ってきた検査結果を見ると。あんたも見ておくかい?」
「そうさせて貰おう」
細かな数字と記号だらけの伝票が貼られたカルテを、鳴瀧はゆっくりとめくった。
担当医、検査技師たちの所見も、さして問題はないとある。安堵のため息をついて、鳴瀧はカルテを返した。
受けとった白い手が、またむっちりと肥えたことには言及せず、鳴瀧は確認した。
「日常生活をおくるには問題なしか」
「そうだね。体調は、あの子なりのレベルで考えりゃ問題なし。健康優良児って訳にはいかないが、そりゃあ、もうどうしようもないことさ」
「充分だ、それで」
それから鳴瀧は呟いた。
「楢崎道心が戻ってきた」
は、と向き合った豊かな胸の奥で、何かが割れたような音がする。それは、短い笑い声へと変わり、すぐに消えた。
「生きてたのかい、あのスケベじじい」
「殺しても死なない。なにしろ敗戦のどさくさに比べれば、屁でもないそうだ」
「よく言うよ」
岩山たか子は、短く切られた爪を、昔のままの仕草でしがんだ。歯を立てるには短すぎる爪が、彼女も変わったと教えている。爪ぎりぎりの肉を見下ろし、岩山は鳴瀧の沈黙を測っているようだった。
「それで爺さん、何だって?」
「別に何も言わなかった。帰国はしたが、こちらへ接触してきた訳ではない。それに楢崎翁ならば、約束通り、けして龍麻に会おうとはしまいよ」
「あたしや神夷たちと同じだね」
「そうだ」
未だ、大氣と龍脈は混沌としている。
不測の事態が起きる可能性が皆無ではない以上、決して危険を近づける事はしない。
一人残った龍の片割れの矜持はいかにも堅い。
岩山は、鼻息をいささか大袈裟に鳴らした。
彼女が父親の後を継ぎ、このささやかな医院を切り盛りするようになってずいぶん時間が経った。だが彼女は、あれ以来一度も、直接あの友人たちの忘れ形見に会ったことがない。主治医は別におり、通院もそちらだった。こうして報告が来るのは、鳴瀧の手配によるものだが、神夷らにはそれさえないのだろう。
守護者としての鳴瀧には、その点、一切の遺漏がない。
もしも、恐れているのかと岩山に問われれば、鳴瀧はためらわず是と答えるだろう。
だが岩山は何も尋ねない。
今日も一言だけだった。
「あたしらは伝染源かい」
「ある意味、そうだな。私や君、かつての宿星たち全てが病原菌のようなものだ」
その意図の有無に関わらず、運命を動かす度し難い歯車なのだと、鳴瀧はうっそりと笑った。
「あの子に余計なことを吹き込むつもりはない」
「それにはあたしも賛成だよ。何事も運命だとか、宿命とか、そういうお題目はもう沢山だ」
岩山は、分厚い書類の最初をめくった。そこに綴じられた、黄ばんだ分娩台帳の複写紙には、青味がかかった文字が並んでいる。
そのおどろおどろしげな暗号を、岩山は無言で眺めている。
そこに貼り付けられた色褪せたポラロイドの印画紙には、保育器に入れられながら黒っぽく変色した、小さな赤ん坊が写っていた。
それを見つめ、岩山は愛おしげに囁いた。
「よく、育ったもんだ。それを思えば、会えなくたってかまやしない。会わないことで、あの子が平穏無事に生きていけるなら、それで充分さ」
鳴瀧は、すでに戸口へ向かっていた。ドアノブに手をかけ音もなく診察室兼応接室を出ていく。その背に声をかけることなくカルテを閉じた岩山は、鳴瀧の置いていった名刺を取り上げた。
「学校法人・拳武館高校の館長ね。まずは力を手に入れ、しかる後、効果的に布陣する。なかなかやるじゃないか、陰龍は」
やるせなく呟いた岩山は、重いカルテを唯一鍵の掛かる引き出しへと放り込んだ。原本は別の施設で保管されている。岩山がこれに所見を書き込むことはあるまい。再び星が巡る時が来るまでは。
願わくば、その時の果てしなく遠からんことを。
名付けようのない存在へ、祈りめいたものを呟くと、岩山は午後の診察のために立ち上がった。
その指を持つ者が育てると、どんな植物もよく育つ。
鳴瀧冬吾は、昔どこかで読んだ、そんな童話を思い出して顔をほころばせた。
甘い香りは、そこここに満ちている。
外はまだ、重く水気を含んだ雪が舞い降りているというのに、この部屋は深い森のようだ。鳴瀧は、吊り下がった鉢の細い枝を摘んだ。米粒のような、小さな白い花を付けた茎が、ヴェールのように垂れている。
これは何という花だろう。鳴瀧には、この鉢を買った覚えこそあれ、まさか花が咲く種類だとは知らなかった。
部屋を見回した。
当人は隠れているつもりなのだろう。だが期待に満ちた、そわそわとした気配は隠れていても所在が明らかで、鳴瀧の口元がなお微笑みで彩られる。
機をうかがう者の期待を裏切らないよう、驚いた振りをしよう。そんな鳴瀧を、堪えきれなくなった子供が、ベッドの影から飛び出して迎えた。
「おかえりなさい」
一度ぶつかってくるまで待ってから、鳴瀧は両手を子供の脇に差し入れた。その細い体は、勢いをつけて持ち上げた途端、どこかへ消えてしまいそうだ。鳴瀧の掴む手が、容易く胸を回ってしまう。
「ただいま、龍麻」
「ぎゅう」
……謎めいた不思議な言葉を考え出し、ためらうことなく使うのが子供というものだ。
相手に伝わるかどうかは考えない。
鳴瀧は笑った。
今日のそれは判りやすかった。
もう一度そう言いながら、龍麻が細い両腕に満身の力を込めて抱きついたからだ。
「せんせいもぎゅう」
催促しているのか、巻きついた腕が少し狭まった。
言われるまま抱き返す鳴瀧に、何かが不満なのだろう。龍麻は身をくねらせて仰け反った。両脚をだらりと垂らし、両腕も放し、ただ鳴瀧の回す腕にその体を預けて、子供は無心に口を尖らせている。
「もっと、ぎゅう」
こうするのだと言いたげに、無造作に前へ体を投げ出す。この姿勢でバランスを崩せばどうなるのか、彼は考えない。まして鳴瀧が支えきれないなどと夢にも思わず、龍麻はもう一度両腕を鳴瀧の首に回した。
子供特有の、高めの体温と汗の匂いがしたが、それはどこか、溢れている鉢植えにも似た、緑の気配がした。
決して、枯らしてはいけない緑。
大地から掘り起こされ、雨風と陽射しを遮る屋根に隠された、珍しい鉢植えのように。それら自然の代わりに、人の手で与えられた水分と滋養とで、すくすくと伸びていく植物は、天から降り注ぐ日の温もりも、葉を伝う雨粒も知らないまま、精一杯に花を咲かせている。
親を知らない子供が、あどけなく鳴瀧にねだった。
「ぎゅう」
望もうと望むまいと、日月は巡り、時は過ぎていく。
大地の脈動は、片割れを失った今の鳴瀧には遠くなってはいたが、それでも教えてくれた。
まもなく、何かが起きようとする予感。
鳴瀧は、ネクタイを緩めながら、頭を巡らせた。
相変わらず、緑の息吹が濃い部屋だった。
今では、植物の助けをさして必要としないほど、健やかな身体になった部屋の主は、受験勉強だと勇んで、図書館へ出かけていったようだ。じきに帰ってくるだろう。
つましく、ささやかに、日々は過ぎてきた。
だが、永遠に同じ形で居続けるものは、ないのだ。
草は枯れ、花は散る。
そして新たな芽生えが訪れる。
あふれるように鉢から垂れ下がった花に触れ、鳴瀧はそっと口元をほころばせた。
すでに、一足先に陰龍が目覚めた。
その先に、希望はある。