犬神の固い手のひらが、伸び縮みする包帯を弄りながら、服の下を這っていく。その動きに、言葉とは裏腹にためらう気配はない。
「せ、んせい」
かすれた声をやり過ごし、犬神は、外の空気で冷え切った布を剥いでいく。
「先生。ご飯、食べませんか」
「飯なら、あとだ」
そう決めつけて、犬神は、柔らかさを残した頬から口元へかけて、緊張して張りつめた皮膚に牙を立てた。それだけで、ぶるりと体を震わせる龍麻を、畳に押しつけ、彼は唇から覗いた赤い舌を噛んだ。
置き所に迷ったように頭上へ伸ばされていた手が、犬神の頬の辺りをさまよっている。その指が、犬神の頬骨に柔らかく食い込む。
「先生」
何か言いかけた龍麻が、子供じみた仕草で犬神の顎を押し上げようとした。もちろん、その重みごと持ち上げることは出来ず、腕を動かした龍麻は、喉を鳴らして息を飲んだ。
「い、いた」
「ばかもの」
短くそう言い、犬神は、さらに押しつけるように体をのしかけた。
横に流れていった龍麻の手の動きを真似るように、犬神は、柔らかな頬骨に沿って歯を滑らせた。そうやって無理やり唇を塞ぐと、彼の眼鏡は、龍麻の眼窩辺りに挟まり、キシキシとたわんだ。
「……いたい」
「我慢しろ」
素っ気なく言った犬神は、それでも少しだけ体を浮かせた。
厚い包帯から漂う匂いに鼻に皺を寄せながら、犬神は、龍麻の鼻に刻まれた、偽の眼鏡痕に指を滑らせた。
「我慢、してろ」
その言葉にほんの少しだけ唇を尖らせたのは、龍麻の文句ではなく、あれなりに誘っているつもりだったのかと犬神が気づくのは、さらに時間が経ってからだった。
とうにどこかへ飛んでしまった眼鏡はそのままだ。
まだ夜明けには間があり、闇の中では視力など役に立たない。
犬神は、未だ細い月が引っかかっている窓枠を見上げ、汗で貼り付くシーツをたぐり寄せた。
龍麻は、シーツと毛布との堆積物に同化している。もぞもぞと温もりを求めてか、幾分温度の低い体が、犬神に寄り添う。
あれだけ飯と呟いていたのは、別に腹が減った訳ではなかったのかと、犬神は思った。
犬神の頬や首筋を何度も指先でたどりながら、あれが何か言いかけるたびに、うやむやに押し流した。
聞いてやれば良かったと、今さら思いながら、犬神はごろりとうつ伏せた。
それを待っていたように、貼り付く龍麻の息が、肋の辺りに届く。その羽ばたきのような感触に、いつものようにため息をつくと、犬神は月を見上げた。
ずいぶんと痩せた月だった。
彼女が豊満になるまでには、まだ時間が必要だ。
だが、これくらいがちょうどいいのかもしれない。
犬神にも、そして龍麻にも。
まだげっそりと削げた印象の強い頬を、唇の感触で思い返しながら、犬神はふと自分の頬に指先を触れた。先ほどの龍麻のように。
「ああ。なるほど」
ふっ、と息を吐き、犬神は目を閉じた。
するとあれは、犬神が痩せたと言いたかったのか。
龍麻は、ほとんど寝息さえたてず、ひっそりと犬神に身を寄せて眠っている。
月は、まだ天にある。だが、じきに夜明けがやってくる頃合いだ。
犬神は、白み始めた空に背を向け、塚のような温もりの中へ潜り込んだ。
そこは温かく、巣穴のように柔らかい。もろい骨を敷いてしまわないよう、注意深く腕を回し、犬神は短く鼻を鳴らした。
取りあえず、昼になったら飯だな、と思いながら。
※いけないひとは獣のよう(そのまんま)※