湯を沸かしている時に、チャイムは鳴った。
「おはよ」
龍麻が、壬生のアパートの、ドアと柵の狭い間ではにかんだように笑っていた。
「おはよう…」
「早くからごめん。学校だろ? 紅葉も」
「いや、うちは月曜が入学式だから… そっちは?」
「うちもだよ、よかった、聞いてからにすればいいんだけど、思いついたの、夜中まわってからで」
入って良いですか、とずいぶん行儀よく問われて、壬生は笑って身を引き、狭い戸口に招き入れた。
ガサガサと音をたててテーブルに置かれたスーパーの袋から、龍麻は次々とタッパーやコンビニの総菜を取り出した。
「嫌いな物ある? 朝は納豆って感じだけど、俺は納豆ってこっち来てから食べるようになったんだ、案外あれおいしいね。油揚げと小松菜はだいじょうぶ? 焼いた鮭は?」
食べられない物はない、と答えるそばから、小さなテーブルの上に、所狭しと冷めたおかずが並んだ。
「…朝ご飯? わざわざ?」
「あ、ここで食べるんじゃないよ!? でも腹減ってる?」
「いや、そんなには」
朝食を、実はほとんど食べない。だが、そう言わず、壬生は龍麻の持つ箸が、持参した弁当箱にきれいにおかずを詰め直すのを見つめた。
「ほんとに、もっとちゃんとした物持ってくればよかったんだけど、俺、基本的には土日買い出しだから、冷凍のとか、缶詰とか、作り置きしかなくて」
でもご飯はちゃんと炊いたんだよ、と蓋をずらして見せてくれた重箱には、きれいなおにぎりが並んでいた。
「弁当みたいだ」
「お弁当だよ、その、よかったらだけど、今日は天気も良いし、平日だから場所も見つけやすいだろうって、その、あれ?」
訪ねてきて、家に上がって、それから言い出す順番のおかしさに、壬生はただ微笑んだが、龍麻はだんだん顔を赤くしていく。
「……ご、ごめん、ええと」
「お茶、熱いの持って行く?」
「う、うん」
火にかけてあったヤカンが、チリチリと鳴り出している。
壬生は、滅多に使わない棒茶の缶を、いったいどこに置いたろうかと、流しの下からふるぼけた水筒を取り出した。埃を洗って、熱湯食毒しようと思いながら。
「東京は、花が早いね-」
「向こうは、まだ?」
桜前線は、日本海側も同じように進んでいると、何となく思い込んでいた。
「まだもうちょいかかるよ。だから入学式の写真に桜って、あれ作り事だと思ってた。東京来て、あ、咲くんだーって知ったからね。ドラえもんとか、あさりちゃんとか、変だと思ってたんだよ、ほんと!」
適当な入れ物が無いからとスーパーのレジ袋に一切合切を入れてきた龍麻に、壬生は使い道がないまま仕舞いこんでいたトートバックを見せた。なので、2人がそれぞれ下げた手提げには、弁当や水筒が居心地よく収まっている。
「やっぱり、朝の桜はきれいだなあ」
河川敷に植えられた桜は今が盛りで、もう、少し散り始めていた。
時折吹く風に、ぶわりと花霞が揺れる。水面に落ちた花びらが、ゆっくりと集まり白い紋様を作っては散り崩れる。
龍麻は、風で邪魔になるのだろう、片手で、時折前髪を触る。週末に切るよと笑って、入学式のことや、大学生活のことを話した。壬生と龍麻、お互いのぶら下げた手提げが、時折ぶつかっては離れていく。
壬生は空いた片手を、ジャケットのポケットにつっこんでいる。ふさがっている手の向こう側にいる龍麻へ、間遠に顔を向けては、そのたびに花びらまじりの風に頬を叩かれる。
「花でいっぱいだ」
ふと立ち止まった龍麻の、その視線が、自分のよりも少し低いことに、今さら気づいた。壬生のやや高い視界も、今は同じであろう、淡い桜色に染め上がっている。
「どこで、弁当食べようか。もうちょっと遠くへ出てからでも良いし、ここで食べても良いし」
ベンチがあるね、と指さされた遊歩道沿いには、朝早くから新学期の小学生やサラリーマンがちらほらいるが、龍麻は気にした様子もない。
壬生の知る龍麻は、かなりの恥ずかしがり屋だ。
今日は、どうしたんだろう。
「人に見られるけど、いいのかな?」
「いいよ、あ、俺は、だけど」
「僕もかまわない。でも、そうだな、もう少し行こうか」
ぶらぶらとこのまま、少し広く作られた休憩スペースまで進めばいいだろう。
コツン、とトートバックがまたぶつかった。
「あー邪魔っけだなあ!」
くるりと、龍麻の体が向きを変える。
とっさにその動きを追い損ねたのは、突然だったのと、風が強く吹いたから、かもしれない。一瞬を置いて、ジャケットに入れたままの手の方へ、ふい、と気配が落ち着いた。
「カバンは、お互い外側に持てば、ぶつからない」
ニッと、公式や大発見を打ち明けるように、龍麻は大仰に言う。
その顔に被さる髪が、また、大きく吹き払われた。桜の花びらが、吸い寄せられるように髪にまとわりつく。
「じっとして」
ポケットから出した手に、髪はどこかひんやりとして感じられた。一、二枚の花びらをつまむと、龍麻は子犬のように頭を振って見せた。
「ほら、これでいいよ。花なら別にかまわないし」
「そうだね」
黒に浮き沈む花びらが、水面のそれよりもずっときれいで見とれてしまいそうだ。
下ろした壬生の手を、ひょいと、冷えた指が取った。
「……誰かに、見られたら困るなら、アレだけど」
誰かに?
壬生は、さっきの、ほんの一瞬、立ち位置を変えた龍麻を見失いかけた一瞬を思い、そうして、龍麻のように勢いよく首を左右に振った。
「ほうか」
龍麻の唇がこぼす音に、壬生には耳慣れないアクセントと音が混じる。それが、龍麻の緊張を示していると知ったのは、ずいぶん前だ。
ひとさし指と中指をまとめてからげた龍麻の手を、そっと壬生はほどいた。
そうして、さっきの自分のように、一瞬、何かをつかみ損ねた龍麻がぽかりと口を開ける一瞬に、掌と掌を合わせ、しっかりと指をからげた。
「うわ、恥ずかし……かも」
「そう?」
ふと、考えた。
そして、壬生は、今日初めて、声を出して笑った。
「わー、温かくてどうかなっちゃったと思われちゃうよーわー」
恥ずかしさの上限を振り切ったのか(龍麻のそれはかなり低い、のだ、いつもは)、のんびりと笑い声をあげ、繋いだ手を龍麻がそっと振る。
「春だねえ」
「そうだね。きれいな桜だ」
「なあ、紅葉。誕生日、おめでとう」
「……ありがとう」
満開の桜が、また、2人を包むように舞う。
あしひきの 山桜花 日並べて かく咲きたらば いたく恋ひめやも
万葉集・山部赤人