一時して、囃子方も踊り手も下がって、座敷はひっそりとした。
広げた色紙と巻紙、硯を脇にして、梅月は杯をもてあそんでいる。
「ふむ、野人と見えて、歌もそれなりにたしなむ、と」
返事は、座敷の外、開け放した障子の向こうから流れてくる。
「島原の天神相手に、そこはそれやなあ」
梅月は、相手の気怠げな声を聞きたくもないと言わんばかりで、払いのけるように手を振った。
「あんたと、女遊びのあれこれを言うつもりはない。そもそもここは私の寮だが」
前に据えた脇息に肘をつき、梅月は、障子の端から覗く女物の襦袢をにらんだ。
「この寮で、さて一筆と思って戻ってみれば、我が物顔で酒と肴をつまんでいる君は何だ?」
「天狗やなあ」
何か言いたげに、星読みは首を振り、吐息の後に頬杖をついた。
「ところで、龍くんは? 先ほどから声もしないが」
秋月の問いに、返事はない。
ただ障子が音もなく開いて、襦袢をだらしなくまとわりつかせた男の膝頭と、そこに預けられた小さなまろい頭が見えた。
「眠ったか」
またも返事はなく、ただ、障子の向こうで動いた何かが、するりと、癖のないつややかな髪を、まろい頭からかき上げたようだった。
あたりは見る間に暗くなった。
静まりかえった座敷に、行灯の火を入れに来た下僕は、咳き1つせずただ影を長く引いて下がっていく。梅月のまわりがぽうと明るくなり、障子の向こうはますます暗く見えた。
こぢんまりとした庭は、すっかり暗がりに飲まれた。奥の築地塀あたりが、かすかに浮かぶくらいで、さらに塀が影を落とすからか、そこここの茂みと築山の区別もつかない。その暗がりの上に目をやって、梅月はつぶやいた。
「ああ、よい月だなあ」
梅月の場所から、月の姿は見えない。長くのびた寮のひさしが、座敷から見える空を切り取り、月を隠している。
だが、塀の上に並ぶ瓦、塀際に植えた椿の葉は、つややかに光っていた。
「そこから月は、よく見えるかい?」
「けっこうな眺めやな、おおきに」
気づけば、障子紙が白く浮かび、その向こうの人影を透かしている。
月が、思うより早く昇ってきたのだろう。
眠る龍斗の、黒々とした髪も、月明かりを弾いている。
するりと、絶え間なくその髪を梳く骨張った指もほの白い。
「花籠に」
柔らかく、人影が謡った。
「月をいれて 漏らさじ これを」
とん、と床を打ち、静かに拍子を取ったようだ。
「曇らさじと」
もう一度、拍子を取って、それきり声が途絶える。
さらりと髪をすく手が、まろい頭に沿うて止まった。
囲うように、すくいあげるように添えた両の手を、梅月は見つめた。
「持つが大事な」
さらりと髪がこぼれる。
左右に揺れた頭が、膝から起き上がったのだろう、一つだった障子の影が二つに別れた。
「よお寝たなあ、龍斗」
「起こさなかったのは誰だろうね」
「さあて、誰やろな」
ひょい、と言葉を投げつけて、もはや気が逸れたことを隠そうともせず、両袖をばさりと振った們天丸が片腕を伸ばす。
「思ひ出さぬ間なし 忘れてまどろむ夜もなし」
月の光が、差しのばされた腕を、翼のように見せて影絵を作る。
それを眺めて、梅月は、ふと唇をたわめた。
「星を読むのが生業だけれど、こうして幕の向こうから見ると、人の営みははかないね」
杯に、すっかり冷えた酒を注ぐ。
その澄んだ面に月光を映して、小さく言った。
「どれほど長かろうと、星の光に較べれば、瞬きのようなものさ」
「それが、いとおしいと知るには、まだ若いか、秋月は」
アホやなあ、という言葉に続いた笑い声が、一瞬、森の木立が一斉にざわめくようなおどろしい響きをたたえた。だが耳を聾するようなざわめきは、すぐに消え去る。
次に、梅月が顔を上げた時には、障子の向こうの影絵は消え失せていた。
残るのは、ただ、月の光ばかり。
「酒の相手くらい、最後まで務めたらどうだい? ましてや、かぐやの姫を連れ去るとは、ほんとうに」
まったく天狗は気がきかない。
と、そうぼやいて、秋月梅月はただ1人、静かに杯を干した。
誰もいない、我が身一つの座敷で謡う。
「ただ人は情あれ 夢の夢の夢の 昨日は今日の古へ 今日は明日の昔」
「今日は明日の昔」
和した声があったように思ったのも、夢かもしれぬ。
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天狗と龍と、星を見る人。
歌:藤原敏行朝臣
閑吟集