では暇かというと、当然のことながら講師の名にふさわしい仕事として、講義、学者の本分としての「研究」、そして学内の業務というのがある。これが案外と比重が高く、毎週そこここで行われる各種委員会や会議、月一の教授会、そして何よりのイベントが入試である。
およそ大学に勤める者にとって「入試業務」とは、もっとも重大にして煩雑な大仕事であり、持ち回りのそれが、数年ぶりに霧崎に回ってきた。助教時代はもう少し小さな、試験場の監督助手とかそのあたりだったものを、今年はよりによって小論文の作問委員を拝命してしまったのだから、霧崎といえど真面目にやるしかない。
作問委員であることは、教員間では公然の秘密のようなものだが、学生や部外者に対しては秘密だ。そういうわけで、さすがの間宮ゆうかも、霧崎研究室の入口を突破することが出来ない。そこが彼女の面白い(困った)ところで、霧崎が「なぜ」研究室を封鎖したのかを、自分への当てつけもしくは挑戦、と取っているあたりが迷惑千万だが、お互いにとって幸いなことに、大学が定期試験期間に入った。それに伴いすべての研究室が学部生立ち入り禁止となったため、間宮の突貫は、立ち入り禁止の真の理由を明らかにすることなく、阻止された。
そんな季節なのである。
「それじゃあ、僕も立ち入り禁止じゃないか」
そう言って、早くも腰を浮かした義弟を、霧崎は、煙の一吹きで押しとどめた。
きちっと背広を着込んでいるせいか、未だに新社会人めいて見える。
服装以上に、幼げな容貌もまずいのだろうな、と批判的な視線をあてつつ、霧崎は、入れなおしたコーヒーを、二人分のマグカップに注ぎ足した。
「お前が試験を受けるわけじゃなし、かまうもんか」
にいさん、と柔らかくたしなめる声は、困ったなあと言いたげだ。
「でも、李下に冠を正さずとも言うし」
「試験問題がここにあるならまずいだろうが、もう学部長室の金庫の中だ」
第一、小論文でどうやってカンニングするというのだ。
一応の建前だな、とうそぶいて、霧崎はタバコをもみ消した。
純也は吸わないが、霧崎の喫煙に苦言を呈したことはない。たまに、心配げな顔をするのは、霧崎が風邪でもないのに空咳をする時だ。そういう時、自分が少し本数を減らしていることに気づくことがある。
「で、今日も何か捜査上の助言て奴が必要なのか?」
「いや、そうじゃないよ。夜勤明けで、たまたま」
嘘じゃないよ、と笑う顔は、相変わらず霧崎には嘘のつけない純也らしい、照れのようなものが漂う。
この義弟は、見た目よりも頑固で、その上、なかなかどうして上手に嘘をつける。
子どもの頃、霧崎の喫煙や夜遊びの真似事を、一番よく知っていたのは純也だった。
だが、それについて誰かに何かを言ったことはなく、あれほど恐れていた義父に尋ねられても、こればかりは平然と「知らない」を通していた義弟だと、霧崎は知っている。
だが、こうして2人になると、手もなく素直なところが表に出てきて、何とも言えないものがこみ上げる。
咳払いをした霧崎は、重ねて、義弟に用はないのかと尋ねた。
「ほんとに、今は何にも。あ、そうだ」
何か、本を貸してもらおうかなと純也が言う。
物理化学などの理系書籍なら、霧崎に尋ねなくとも自分で探すだろう。
ならば、と本棚をあいまいに指した。
「都市伝説系のとんでも本なら、そっちの層だ。学術的なものは、その棚あたりだな。フィクションならここら辺だ」
好きにどうぞ、と手を振れば、義弟はマグカップを持って、棚の前に立った。
「読む速さ、ますます加速してるんじゃないの?」
「そうでもない。徹夜のお供は手放せなくなってきた」
残骸ともいうべき、灰皿の堆積物と、ゴミ箱のコーヒーフィルターを示すと、感心しないな、と言いたげな視線を感じて、霧崎はマグカップに鼻をつっこんだ。
「あ。懐かしいなあ」
純也が手にしたのは、色の変わったハトロン紙をカバーにした、小さな文庫本だった。
「泉鏡花。てっきり、女性だと思って読んで、目が回りそうになったなあ」
言葉が綺羅綺羅しく絢爛豪華で。
理系とも思えぬ情緒的な感想を呟いた純也は、乾いたカバーが指先で崩れたことにひるんだのか、手を引いた。
「鏡花なんて読んだのか」
「一応。高校大学時代は何でも読んだよ」
受験の為でもあったしね、というが、それが謙遜であり、またある種の痛みであり、照れでもあると、霧崎は知っている。
純也も、承知している。
彼らの育った家庭は、今なお、純也が、思い出す時に表情を消してしまう場所だった。
悪い場所ではなかった。
ただ、そういう場所であったというだけのことだ。
「鏡花の書く金沢は、彼の夢の中にある街なんだそうだ」
「ふうん。あの、天守の中の世界のような?」
「そうかもしれない」
古びた文庫本を挟んで、言葉を交わす。
ゆるやかにつながれた糸の、その引き合う力を端と端で感じ合うような位置を維持して。
ふとそんな想像を巡らせて、霧崎は、別の本を手に取った。
弟が目を輝かせる。
笑って、それを手渡すと、弟が置いた文庫に手を置いた。
ひび割れた手触りのカバーと、古い紙の匂い。
どこかぬくもりが残っているようで、そっと指を這わせながら、霧崎は、弟の細い手首だけを見下ろした。
この研究室が、今だけは何ものからも遠ざかった泡であれと、柄にもなく願った。
※義兄は義弟が大好きすぎると思う、そして義弟は無意識に振り回してると思う※