あの村が本当にあったのかどうか、そんなわかりきったことでさえ、この、埃っぽい、日毎に見慣れぬ石造りの建物が林立する場所にいると、あやふやになっていくのだ。
その坂を登るのは、近頃の風祭が日課にしている、ちょっとした脚試しだった。
近頃、この急坂で馬試しをした者が居ると新聞が書きたてたせいか昼間は人が多く、風祭は取りかかる時間を早めている。
かつて、これは権現信仰も廃れるかと思われたものだが、そうでもないらしい。
馬乗り袴を軽くからげて、身軽に石段を登る。昔であれば、後先考えず一息に登って息を切らしただろうが(そして意地でも平気な振りをしただろう)、今は、己の息を操り、一心に上へ上へと進んでいく。てっぺんにたどり着けば、淡いばら色のほの明るい空、わずかに星が覗く頃となった。
口をすすいで社殿を仰ぎ、軽く片手拝みに印を切って、突端から坂を、石段を見下ろした。この男坂を馬で登り切ったというなら、確かに評判になっても不思議はない。
風祭は、ふん、と鼻を鳴らしてもう一度、背後の社殿を振り返った。
馬の話は表の噂。
近頃、ひっそりと聞いたもう一つの噂は、もう少し薄暗い。
亡霊が出るという。
白い経帷子を着た亡者が、この坂を行きつ登りつするのだという。
ざんばら髪の亡者が、音もなくこの急坂を走り登る。
家人がどこかからその話を聞き、夜の明けぬ内から家を出る風祭に告げたのは、何かしら案じるところがあったのか。
もちろん、風祭はその話を一息であしらった。
そもそも亡者が出るならば、今なら何より上野だろう。小塚原や鈴ヶ森もあろう。
すうっと社殿の向こうから坂へと風が通る。
ぶるりと身を震わせ、風祭は苦笑した。
亡者は恐ろしくない。恐ろしいのは、忍び寄る弱い心だ。
眼を細め、風祭は、昔と変わらぬようで、姿を変えた東京の街を見下ろした。
権現詣でならば、ずいぶん信心深い亡者だなと微笑んで、下りのために膝を軽く曲げ伸ばす。
ぐっと丸め、よくよく背筋を伸ばして目線を坂下へ向けた。もう日はすぐそこまで昇っているので、もやが急速に晴れていく。
坂下のまだ蔭っている辺りを見下ろし、息を呑んだ。
ざんばら?
いや、あれはそうではない。荒く切りそろえた髪は、猫のような柔らかな癖毛だったので、散って見えたのだ。白い帷子ではなく、袖のない、地文様入りの上着から伸びた腕は軽やかに振られて、しなやかな脚の動きに合っている。
二昔以上前の光景が蘇ったように、それはまっすぐ登ってくる。
音もなく。もやをついて、たなびく白いものを足下にまとわりつかせ、軽々と石段を駆け上がってくる。
風祭の背を、さっと陽光がなめる。
瞬時に色濃くなった風祭の影が、石段へ伸びて伸びて、駆け上がる人の顔を覆う。
その顔を確かめようと食い入るように見つめる風祭を嘲笑うように、影は濃い。
足音も息づかいも聞こえないのに、それが笑った。
声を上げて笑った、と風祭は思った。
さっと伸びた手のひらが、やや上へ伸ばされる。
風祭の髪が柔らかくそよいだ。
まるで撫でられたように。
一瞬のうちにそれは風祭を追い越し、さらに進む。
朝日に溶け入るように、輪郭がかすむ。
まばたけば終わる、と思いながら、風祭はぐっと目を閉ざした。
一拍を数えて眼を開けば、くるくると回る一葉が。
その一葉がぱたりと地に伏す前に、風祭は、坂下へと目をやり、下りの為に身をひきしめた。
あの影が、笑っていたのかどうかはわからない。ただ、あの走り登る様は、あまりにも……楽しげだった。それがいかにもしゃくで、昔の負けず嫌いな気性がむくむくとわき起こる。
年もわきまえず、と家人に言われるのを承知で、風祭は坂を駆け下り始めた。
※龍斗を好きすぎる澳継※